創業のころ

◆起業家としての第一歩

 松下幸之助は、日清戦争さなかの明治27(1894)年11月27日、和歌山県に8人きょうだいの末っ子として生まれました。松下家は小地主の階級で、もとはかなりの資産家でした。ところが幸之助が満4歳のとき、父親が米相場(米の先物取引)に手を出して失敗、先祖伝来の土地や家を手放さざるをえなくなります。

 9歳で尋常小学校を中退して単身大阪に丁稚奉公に出された幸之助は、火鉢店での短い奉公を経て、船場の五代自転車商会で小僧として働きました。その間、商人としての基礎をみっちり教え込まれた経験が、のちの松下電器(現パナソニックグループ)の経営に大いに活かされることになるのです。

電気の仕事を志した幸之助は、明治43(1910)年、15歳で大阪電燈(のちの関西電力)に転職 し、建物に電線を引いて電灯を設置する配線工となりました。大阪電燈に勤めた7年近くのあいだに、小は住宅、店舗から、大は劇場や工場の工事に至るまで、ほとんどの工事をひととおり経験しました。大阪・新世界の通天閣の電灯工事を請け負ったこともあります。  在職中、ソケットを自分なりに工夫改良(大正6年1月に実用新案登録)したことがきっかけとなって、22歳で独立、妻と義弟の3人で電気器具の製造を始めました。当初はつくった改良ソケットがまったく売れず、資金も底をつき、あすの生計すら危ういという状態に陥りましたが、思いがけない注文が舞い込んで窮地を脱します。独立翌年の大正7(1918)年3月、松下電気器具製作所を設立。売り出した改良アタッチメントプラグ、二灯用差込プラグなどがヒットし、この年の年末には20名を超える従業員を抱えるほどになりました。  その後、砲弾型電池式自転車ランプ(大正12年)、スーパーアイロン(昭和2年)、角型の電池式ランプであるナショナルランプ(同年)などが次々に大ヒット。幸之助は、画期的な新製品を生み出すだけでなく、販売方法、宣伝方法でも業界の常識を打ち破り、電機業界の革命児となっていきました。

◆「産業人の真使命」の感得、そして敗戦

 このころから、幸之助は企業が社会的な責任を果たしていくことの重要性を意識するようになります。昭和4(1929)年、松下電気器具製作所を松下電器製作所に改称するとともに、松下電器の経営理念を簡潔に表現した「綱領・信条」を制定しました。そこでは事業経営を単なる営利手段とせず、社会のため、産業人の本分を尽くすことを経営の基本方針として掲げています。

同年、世界大恐慌の影響で企業倒産、工場閉鎖、人員削減の嵐が吹き荒れるなか、松下電器の売り上げも半減し、倉庫が在庫で埋まるという創業以来の深刻な事態に直面。そのとき病床にあった幸之助は、幹部に対してこう指示しました。「生産は直ちに半減する。しかし、従業員は一人も解雇してはならない。工場は半日勤務として生産を半減するが、従業員には給料の全額を支給する。そのかわり店員(現在でいう正社員)は休日を返上して、全力をあげてストック品を販売すること」。そうしてこの危機を乗り切ることに成功したのです。

創業のころ

昭和7(1932)年には、のちに「水道哲学」といわれるようになる「産業人の真使命」を感得、全店員に発表しました。その内容は、「産業人の使命は貧乏の克服である。物資を水道の水のごとく安価無尽蔵に供給することで日本を豊かにする。その達成期間を250年とする」というものです。そして、真の使命を知ったときがほんとうの創業という意味で、同年を「創業命知元年」と定めました。

昭和8(1933)年、幸之助は独自の着想による、日本では先駆けとなった事業部制を採用。事業部制とは、生産から販売に至るすべてを責任者に一任する方法ですが、この組織の導入には2つのねらいがあったといいいます。1つは、事業部にすることによって成果と責任が明確になり、「自主責任経営」の徹底ができること。もう1つは、いっさいの責任をもって経営に当たらせることで経営者の育成が図れるということです。

その後、時代は徐々に戦争の色彩を濃くし、国内の産業活動はすべて軍需生産に動員されていきました。松下電器も例外ではなく、軍の要請で航空機用の電装品や無線機、レーダーなどの生産を行います。そして昭和18(1943)年、やはり軍の要請を受けて松下造船株式会社と松下飛行機株式会社を相次いで設立、終戦までに56隻の木造船と3機の木製飛行機を生産しました。しかしこのことが、戦後、各種の制限指定を受ける原因となるのです。

◆試練、復活、さらなる飛躍

昭和20(1945)年の敗戦後、幸之助は直ちに民需生産の再開を決意し、終戦の翌日午前には社員に対し「緊急事態に処する経営方針」を発表するなどしました。ところが戦時中に軍の仕事に関わったことで、GHQ(連合国最高司令官総司令部)から財閥家族の指定、公職追放の指定など7つの制限を受け、経営状態が極度に悪化して会社解体の危機に陥ります。この塗炭の苦しみは5年近くにわたって続きますが、朝鮮戦争特需をきっかけに好転、見事に経営を立て直しました。

 前後しますが、敗戦後の荒廃した日本の姿を目の当たりにした幸之助は、「人間は本来、もっと平和で豊かで幸せな生活を送れるはずだ」と

月刊誌『PHP』創刊号(昭和22年)

いう思いを強め、その思いを多くの人々に訴えたいと考えました。そして昭和21(1946)年、「繁栄によって平和と幸福を(Peace and Happiness through Prosperity)」をスローガンに、その実現の方策を衆知を集めて研究し、実践運動を展開する機関としてPHP研究所を創設。この活動は、松下電器の経営と並んで幸之助の戦後に
おける重要な活動の一つとなりました。

昭和26(1951)年、松下電器の経営を世界的視野に立って進めるため初めて欧米を視察、
翌27(1952)年にオランダのフィリップス社との技術提携を成立させて、エレクトロニクスメーカーとして大躍進する地歩を固めます。

また、社員に理想や目標を示すことを大切にしていた幸之助は、昭和31(1956)年、5年で 売り上げを4倍にするという画期的な「5カ年計画」を発表しました。この計画は民間企業で 長期計画を発表することがほとんどなかった時代でもあり、世間を驚かせましたが、ほぼ4年で達成。さらに昭和30年代後半から40年代にかけて「週5日制の実施」「欧州を抜いて米国 並みの賃金に」などの目標を次々に示し、それらをすべてなし遂げたのです。

◆試練、復活、さらなる飛躍

昭和36(1961)年、松下電器の社長を退任して会長に就任し、経営の第一線から退きました。同時に、松下電器の経営に専念するために昭和25(1950)年から中断していたPHP研究を再開。このころから幸之助は、積極的に言論活動を行うようになります。

昭和37(1962)年にはアメリカの『タイム』誌で、昭和39(1964)年には『ライフ』誌で、最高の経営者として取り上げられます。特に『ライフ』誌では、「最高の産業人、最高所得者、思想家、雑誌発行者、ベストセラー作家の5つの顔をもつ人物」と紹介され、その名声は世界中に広まっていきました。

◆憂国の思いはやまず

 一方で松下電器の経営の第一線に復帰した時期もありました。昭和39(1964)年の不況時には、系列の販売会社、代理店の深刻な経営難を察知したことから「全国販売会社代理店社長懇談会」(通称「熱海会談」)を開きます。この懇談会ではみずから延べ13時間も壇上に立って侃々諤々の議論を行った末に、最後は感動的な和解をもって終了し、販売体制の刷新を約束しました。そして半年間、病気療養中の営業本部長の職務を代行、全国的な販売会社網の再編、新月販制などを基本とする改革を陣頭指揮して難局打開の道をひらいたのです。また昭和40(1965)年には日本で初めて週5日制(完全週休2日制)を導入しています。

晩年は思想家としての活動が主体となり、京都に得た一邸・真々庵(現松下真々庵)でPHP研究に没頭します。著作物などを通じて数々の提言を行い、思想面でも社会に多大な影響を与えました。昭和22(1947)年に創刊した機関誌『PHP』が、昭和44(1969)年1月号で発行部数100万部を達成。昭和40(1965)年から始めた「あたらしい日本・日本の繁栄譜」という計75回にわたる長期連載では、政治や経済、教育など幅広い分野について建設的な提言を続けました。並行して『一日本人としての私のねがい』(昭和43年刊)、『崩れゆく日本をどう救うか』(昭

和49年刊)、『新国土創成論』(昭和51年刊)、『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』(昭和52年刊)などの提言書や『人間を考える──新しい人間観の提唱』(昭和47年刊)といった研究書を次々と著し、大きな反響を呼んだのです。

一方で幸之助は、社会をよくするためにはどうしても為政者をはじめ各界の指導者に人を得ることが必要だと考えていました。そして、「21世紀に理想の日本を実現するための基本理念の探求と、それを具現する指導者の育成」を目指し、「松下政経塾」の設立を決意。昭和55(1980)年、私財70億円を投じて開塾します。塾ではみずから塾生に語りかけ、議論をして人材の育成に努めました。

その後も、87歳で「日本国際賞(Japan Prize)」の創設を目的とした財団(現国際科学技術財団)の設立に尽力して初代会長に就任(昭和57年)、88歳で新政策研究提言機構「世界を考える京都座会」を設立(昭和58年)するなど、最晩年まで活動を続けました。平成元(1989)年4月27日、幸之助はその94年の生涯を閉じました。

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